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    中村-第一話受け継がれる思い

    私は窓の外を眺めながら、ため息をついた。デスクの上には、村上が去る前に置いていった書類の束がある。桐山涼介の人事評価と、彼に関する村上からの熱のこもった推薦状だ。

    「どうしたものか…」
    村上からの頼みは単純明快だった。彼の異動後、桐山を自分の直属に引き取ってほしいというものだ。その理由も明確だった。「間違いなく僕と並ぶくらいの男になる」と。
    村上は私が部長に就任して以来、最も頼りにしてきた課長だ。営業成績は常に社内トップ。彼の判断を疑ったことはない。しかし今回の依頼は少し違う。それは単なる人事異動ではなく、彼の遺志とも言えるものだった。

    桐山涼介。

    彼の人事ファイルを開くと、入社3年目までの評価は芳しくなかった。むしろ最下位に近い成績で、一時は退職勧告も検討されていたほどだ。しかし、ここ数ヶ月で彼の成績は驚異的に伸び、今月は社内No.2になっている。
    こんな短期間での変化は異例だ。一時的な成績で評価するのは危険だという声も、部内では上がっている。

    「中村部長、彼は本物です」
    村上は異動の挨拶に来た時、そう熱心に語った。「写真というツールを通して、彼は物件に対する見方、そしてお客様への伝え方を変えました。彼が見出した『暮らしを提案する営業』の真髄は、私たちの部署の未来を変える可能性があります」

    村上の目は真剣だった。彼は単に有望な部下を引き立てたいのではなく、自分が見出した新しい営業アプローチを桐山を通して育てたいと考えていたのだろう。
    私は椅子を回して、壁に貼られた部署の営業成績表を見た。確かに桐山の成績は右肩上がりだ。特に顧客満足度の数値は、村上に次いで高い。数字は嘘をつかない。
    しかし、私が躊躇している理由はもう一つある。桐山を引き取るということは、村上が始めた「変革」を引き継ぐということだ。村上は常々、「データだけでは見えない価値がある」と言ってきた。それを実践し始めたのが桐山だという。
    その責任は重い。

    「部長、少しよろしいですか?」
    ドアをノックする音と共に、総務の課長が顔を出した。

    「ああ、どうぞ」
    「桐山さんの異動書類の件ですが、いつまでにご決断いただければよろしいでしょうか」
    私は一瞬考え、決断した。「今日中に決めます。少し考えさせてください」

    総務課長が退室した後、私は桐山の最近の物件提案資料を手に取った。通常の資料とは一線を画す内容だ。物件の数値データだけでなく、周辺環境の写真、そこでの暮らしをイメージさせる文章。そして何より、顧客の声として「ここに住む自分の姿が見えた」というコメントが並んでいる。

    これは確かに、村上が得意な「売らない営業」の形だ。物件を売るのではなく、暮らしの価値を伝える。数字ではなく、物語を語る。

    私は思い返した。20年前、私自身が新人だった頃。当時の部長から「不動産は単なる箱ではない、人生の舞台だ」と教えられたことを。その言葉の真意を完全に理解できたのは、10年以上経ってからだった。

    そして今、村上と桐山はその本質を、より現代的な形で表現しようとしている。

    「よし」
    私は決断した。桐山を私のチームに迎え入れよう。それは単に有望な若手を引き取るという判断ではない。村上が見出した「新しい営業の形」を育てる決意でもある。

    私はペンを取り、異動承認の書類にサインした。これで桐山は来月から私の直属となる。同時に、私は別の書類も用意した。「新営業手法開発プロジェクト」の立ち上げ企画書だ。リーダーには桐山の名前を記入した。

    窓の外では、春の陽光が建物に反射して輝いていた。新しい季節の始まりを告げるかのように。

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