瑞希-第五話 海を望む部屋
「二条さん、こちらが最後の物件になります」
桐山涼介は鍵を取り出しながら、少し緊張した様子で言った。
私、二条瑞希は特集の成功で得た昇給を機に、思い切って引っ越しを決めていた。「VOYAGE」の編集部での立場も変わり、心機一転、新しい住まいで新しい人生を始めたかった。
「どんな物件なんでしょうか?」
私は期待と不安が入り混じった気持ちで尋ねた。
「実は…」桐山さんは少し照れくさそうに笑った。「今日ご案内した中で、個人的に最もおすすめしたい物件なんです」
ドアを開けると、シンプルな玄関が現れた。リビングへと続く廊下を歩き、桐山さんが「こちらへどうぞ」と言って先に立った。
リビングに足を踏み入れた瞬間、私は息を呑んだ。
「これは…」
大きな窓の向こうに、青く広がる海。夕陽に照らされて、オレンジ色に輝く水面。そして、遠くにうっすらと浮かぶ島影。
「あれは…」
「はい」桐山さんが誇らしげに微笑んだ。
「青島です。晴れた日には、あのように見えるんです」
「青島…」
私は思わず窓に近づいた。
あの特集で私が文章に命を吹き込んだ場所。まさかこんな形で再会するとは。
「素晴らしい眺めでしょう?」
桐山さんは少し離れた位置から窓を開けた。潮の香りを含んだ風が部屋に流れ込んできた。
「朝は日の出が水平線から昇る様子が見られます。特に晴れた日の朝は、青島の輪郭がくっきりと浮かび上がるんです。夕方は今ご覧のような夕陽が海を染める。四季折々で海の表情も変わります」
彼の話し方には情熱があった。単なる営業トークではなく、この景色に対する純粋な愛情を感じた。
「鳥たちの声で目覚め、波音を聞きながら眠る。時間の流れが、都心とはまったく違うんです」
彼の言葉に、私はMAYROでの村上さんの言葉を思い出した。「場所そのものより、そこで人がどう時間を過ごすか、どんな記憶を刻むか、それが大切なんです」
「二条様は編集のお仕事をされていると伺いました」桐山さんが言った。「この景色を見ながら原稿を書けば、きっとインスピレーションも湧くと思うんです」
「ここで過ごす朝は、光の目覚めから始まります」彼は続けた。「コーヒーを入れながら、潮風が運ぶ塩の香りで新しい一日を感じる。日中は陽の光が海面で踊り、仕事の合間に目を休めれば、心も体も癒される。夕暮れ時は、まるで時間が止まったかのように、世界が静かに色を変えていく…そして、青島の影が夕焼けを背景に浮かび上がる瞬間は、言葉では表現できないほど美しいんです」
彼の言葉はまるで詩のようだった。文章を書く私の心に、確かに響いてきた。
「桐山さん、まるで詩人みたいですね」
思わず言ってしまった。
彼は顔を赤らめた。
「すみません、つい熱くなってしまって…」
「いいえ」私は笑顔で首を振った。
「素敵な表現です。私も同じように感じました」
窓の外では、太陽がゆっくりと水平線に近づいていた。海面に映る光の道が、まるで私たちを誘うように伸びている。青島のシルエットが、オレンジ色の背景にくっきりと浮かび上がっていた。
「決めました」
私の言葉に、桐山さんは驚いた表情を見せた。
「ここに住みたいです。青島を見ながら、新しい物語を紡いでいきたい」
「本当ですか?」
彼は嬉しそうに言った。「では、条件や契約の詳細をご説明します」
帰り道、車の中で桐山さんが話してくれた。
「実は村上さんからのアドバイスで、二条様には特にこの物件をお見せしたかったんです」
「村上さん?」
「はい。『彼女なら、時間の価値が分かる。そして、あの島の魅力も』って」
私は微笑んだ。あの時計店での出会いがなければ、今日この景色に惹かれることもなかったかもしれない。
