桐山-第九話 青島を望む部屋
僕、桐山涼介は今日、特別な顧客を案内することになっていた。二条瑞希さん、旅行雑誌「VOYAGE」の編集者だ。上司の村上さんから「絶対に成功させろ」と念を押されていた。
「二条瑞希さん…」
資料に目を通していると、その名前が頭に引っかかった。そうだ、あの青島特集の担当者だ。村上さんが「これを読め」と渡してくれた特集だった。「時間を旅する」というコンセプトに心を奪われ、不動産の仕事への向き合い方が変わったきっかけだ。
約束の時間の10分前、僕は喫茶店で最終確認をしていた。今日案内する三つの物件のメモを見直す。村上さんから聞いた話では、二条さんは青島特集の成功後、担当する企画が増え、資料が多くなって今の住まいが手狭になってきたとのこと。1LDKへの引っ越しを希望している。
「お待たせしました、桐山さん」
声に顔を上げると、洗練された雰囲気の女性が立っていた。写真で見た通りの二条瑞希さんだ。
「二条様、初めまして。南国不動産の桐山涼介です」
緊張した面持ちで挨拶をする僕に、彼女は柔らかく微笑んだ。
「今日はよろしくお願いします。村上さんからは『桐山君なら最高の物件を見つけてくれる』と言われまして」
「村上をご存知なんですか?」
「はい、ある時計店で偶然お会いして。私の人生を変えてくれた方なんです」
まるで運命のような出会いだ。村上さんは何も言っていなかったが、だからこそ僕に任せたのかもしれない。
最初の物件は、駅から徒歩7分の新築マンション。玄関を開け、二条さんを中へ案内した。
「こちらは、書斎スペースが特徴の物件です」
リビングの一角に、大きな窓に面した書斎コーナーがあった。
「朝日が入るこの場所なら、インスピレーションも湧きやすいのではと思いまして」
二条さんは窓際に立ち、外の景色を眺めた。
「確かに明るくて、集中できそうですね」
彼女はノートを取り出し、メモを取り始めた。真剣な表情で物件を吟味する姿に、プロフェッショナルの空気を感じた。
「お仕事のための空間として、どんな場所が理想ですか?」思い切って質問してみた。
「そうですね…」彼女は少し考えてから答えた。「資料が広げられる場所と、時々窓の外を見て気分転換できるような…青島特集のときは、たくさんの写真からインスピレーションを広げたんです」
「なるほど次の物件はたくさんの資料が広げられます」
次に案内したのは、大きな書棚が備え付けられた物件。
「こちらは書斎というより書庫という感じですが、資料や本が多いとおっしゃっていたので」
二条さんは嬉しそうに書棚に触れた。
「ここなら資料も整理できそう」彼女は満足そうだ。「どうして私が資料で悩んでいると?」
「村上から聞きました」正直に答えた。「二条さんの仕事への姿勢を知って、ぴったりの物件を見つけたいと思って」
村上さんの言葉が頭に浮かぶ。「物件を売るんじゃない、そこで過ごす時間の価値を伝えるんだ」。二条さんの特集から学んだことを、今彼女自身に返したかった。
「最後の物件は少し特別なんです」車を走らせながら言った。「駅からは少し離れますが…」
最後の物件は、リバーサイドのマンション。エレベーターで8階に上がり、ドアを開けた。
「こちらへどうぞ」
リビングに足を踏み入れた二条さんは、息を呑んだ。
「これは…」
大きな窓の向こうに、青く広がる海。夕陽に照らされて、オレンジ色に輝く水面。そして、遠くにうっすらと浮かぶ島影。
「あれは青島です」と伝えた。「晴れた日には、あのように見えるんです」
「青島…」彼女は窓に引き寄せられるように近づいた。
この瞬間のために、僕は時間を調整していた。夕陽が海を染める、最も美しい時間に。
「朝は日の出が水平線から昇る様子が見られます。特に晴れた日の朝は、青島の輪郭がくっきりと浮かび上がるんです」
窓を開けると、潮の香りを含んだ風が部屋に流れ込んできた。
「鳥たちの声で目覚め、波音を聞きながら眠る。時間の流れが、都心とはまったく違うんです」
二条さんは無言で景色を見つめていた。僕は彼女の特集の言葉を思い出しながら続けた。
「ここで過ごす朝は、光の目覚めから始まります。コーヒーを入れながら、潮風が運ぶ塩の香りで新しい一日を感じる。日中は陽の光が海面で踊り、仕事の合間に目を休めれば、心も体も癒される…」
言葉が自然と口から出てきた。彼女の文章に触発されてのことだ。
「桐山さん」彼女が振り返った。「『VOYAGE』を読んでくださっていたんですね」
「はい」正直に答えた。「あなたの青島特集が、私の仕事の見方を変えてくれたんです」
窓の外では、太陽がゆっくりと水平線に近づいていた。海面に映る光の道が、まるで未来への道筋のように伸びている。
「この物件、他の二つと比べて少し家賃が高いんです」と説明した。「でも、個人的には…」
「決めました」彼女の声は確信に満ちていた。「ここがいいです」
「本当ですか?」驚いて聞き返した。
「ええ。ここなら、次の特集も書けそうです」
彼女は微笑んだ。
「桐山さん、ありがとう。私の求めていたものを見つけてくれました」
窓の外を見ながら、僕は考えた。自分が案内した物件から、二条さんが次の物語を生み出すのだ。そして、その物語がまた誰かの人生に影響を与えるかもしれない。
時計を見ると、秒針がゆっくりと動いていた。まるで新しい時間が始まったかのように。